昭和46年08月24日 朝の御理解
御理解 第29節
「桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。桜の花は早う散る。梅の花は苦労しておるから長う散らぬ。」
ああすればこうなる、こうすればああなる。分かっていながら、ああもしなければ、こうもしない。そう言う事が私ども、信心させて頂いている者の上に沢山あろうかと思います。合楽の方達は、これ程御理解を頂き込んで居りますから、それが分かっていると思うのです。ああすればこうなる、こうすればああなると言う事を、こう言う心の状態になれば、ああ言うおかげが受けられる、ああ言う心の状態ではおかげは受けられない。
こう信心しなければならない、こう努めなければならないと、言う様な事分かっておる。分かっていながら、ああもしなければ、こうもしない、この様ではねおかげは受けられない。それをね大体皆さん分かっておると思う。それはその、確信とまでは行かないか知れませんね。まあしだこだやって居れば、おかげを頂くと思っているのかわかりません。けどここんところ全教の信奉者の方にはね、ああすればこうなる、こうすればああなると、はっきり分かってない人が、どのくらい沢山あるか分からない。
私は合楽の場合はそこが、はっきり何時も示されてあると思うのです。けど本当に私が思うのにですね、今日私そこのところを改めて思うのですけどね、金光様の御信心を頂いておる全信奉者の中にです、その決め手と言うかこうすればああなる、ああすればこうなると言う事をですね、知らずに居る人が沢山あるのじゃなかろうか、知っとるかの様にあるけれども、それではおかげにならんと言うことを知っとるだけである。一つの思い込みと言うものを持って、その事に一生取り組んでうだつが上がらない。
おかげもよう頂かないで終わるという、こういう事しよっちゃおかげにならん。それが分かって居るならこげな事せんち言やええじゃないか、こげなこと言いよったんじゃおかげにならん、はっきり示されるのだから、そげなことは言わんと思わにゃいかん。だから私は合楽の方達の場合にはですね、どう言う様な信心んすれば、こう言うおかげが受けられる、どういう信心すればおかげがこうだと言う事が、まあ分かって居られるとして、聞いて頂きたいと思うのです。
今朝から、私はいつもの通り目覚ましのおかげを頂いて、洗顔を終わってから、奉仕着を着けようと思って、応接台の下に置いてある奉仕着を出そうと思うても、奉仕着が入ってない。昨日、年寄り達の部屋に行ってあそこで着物脱いだから、あそこでおばあちゃん、たたんでくれて、だからあそこに在るだろうと思うて、それから真っ暗に電気消しとりますから、点けるといかんと思うて手探りで見ますけどない。仕方がないから電気を点けた、母がびっくりしとります。
昨日奉仕着をたたんで貰うとりましたかと言うたら、あれはお母さんが持って行ったですよ、だから持って行くのは大体きまっとるから、又部屋さん行ってからあっちこっち見ますけどない。まあ夕べあれから大変遅くなりましたから、私が電気点けたり、探したりしょるけど起きません。それから又炬燵の間まで持って来て、忘れとるのかも知れんと、それから炬燵の間へ行ってあそこの電気を点けて見るけどありません。
それから仕方がないから電気を点けたり消したりして、家内が眠そうな顔で起きて来た。奉仕着がないがと言うと、あぁあれは炬燵の間に置いとりますと、それから又炬燵の間までそれまでには十四、五分掛ったでしょう。それから又見損ねたと思うて炬燵の間まで行ったけど無い。それでこれはいよいよ本人、お前なかぞとどこ探してもと、それから又家内は起きてから納戸に置いとったと気が付いたらしいから、そしたらすぐ分かりました「もう俺が朝のこのひと時を、どの位大事にするか分かっとるじゃないか」。
ちゃんと奉仕着をいつも確かめて下着を新しく、足袋を新しく替えたりしてくれるんです。してくれてあるのです何時も、それが今朝に限ってそんな事です、穏やかでないね、こっちは。分かっているんです、ここで言うてはならない事も、この様に朝から苛々してはいけない事も、もうこちらを出る時には丁度十五分間遅れてる、三時四十五分。それから幹三郎が一緒について来た。
幹三郎にまた私は朝から物は言わんのですけどね、昨夜遅く皆さんを送って出た時に、あすこに丸少が沢山いろんなものを書いて貼ってありますね、その中にもう本当に丸少らしくない事を書いとった。まるきりあれは安物の週刊誌に書いとる様な事を書いとる、幹三郎が一人で書いた訳ではなかろうけれども、マル少ならマル少らしい事を書いたり、貼ったりしないか、べたべた貼るのは良いけれど、呼びかけてる文句が気にいらん、剥いでしまえと、もう朝からこうなんです。
そして心の中で、朝からこんな事で相済まんとこう思いよります。丁度私の朝の御祈念が一時間、心が乱れとるから、お願いしょうと思う事がお願いができん。だから十五分間時間が過ぎちゃった。一時間で終わる御祈念が一時間十五分かかっちゃった。もうてきめんなこと。そして御理解頂いたのがこの二十九節、桜の花の信心より梅の花の信心と言うところ。桜の花の信心がいけないのじゃない。例えばそう言うて聞かせて分からせると言う事も決して悪い事じゃない。
けれども本当のおかげはない。まあ朝から失敗をしたと言う事なのであります。梅の花の信心と言えば、先日からも頂きます様に、痒いから掻くのは桜の花の信心じゃ、痒いけれどもじっと辛抱する、それが梅の花の信心。辛抱しておる内にゃ痒かったものが、痒くなくなるだけじゃない、繰り返しよると例えば、蚊が食うて痒い時でもです、それを段々辛抱しょると免疫性が出来てくる。蚊にさされても痒うない様になる、これが徳だといった様な事を頂きました。
はがゆいから言う、それもはがゆいから言うて聞かせる事もいい、それは今朝から、私は桜の花の信心じゃいかん、梅の花の信心にならにゃとこう思うておるのにも拘らず、そういうまあ失敗をしたと言うこと。そこでです、ああすればこうなる、こうすればああなるとはっきり出て来とるでしょうが、四時から五時にきちっと御祈念が終わって、五時から若先生が皆さんと御一緒に御祈念をさして貰う、それが言わばもう五時十五分であった。十五分だけ狂うた。
こうすればああなる、ああすればこうなる事がはっきりしとる。私は始めて朝から家内に文句を言うたり、しかも幹三郎にまで言うたことは今日はじめて。御祈念前にねいわゆる、あの三十分間が私にとって一番大切な時間、大事な時である。今日は有り難い雰囲気じゃなかった。それがもう私の朝の御祈念がもう乱れとる。ですから今日私はそこんところをね、ああすればこうなる、こうすればああなると、合楽の方達は分かっておられると思うのです。私は分かっておられるとしてお話を聞いて頂いてとる。
ところがこれを全信奉者と、どげな信心したらおかげ頂くじゃろうか、どげな信心しょりゃおかげ頂くじゃろうかと、もう求めに求めて、一生分らんなりにおかげ頂かずに終わる方がどの位あるか知れはせん。と言う事。他の人達はそして、あぁでもなかろうか、こうでもなかろうかとして肝心要のところをです、それを頂きぬき得ずしておかげを受けてない人がある中にです、合楽の方達は私がはっきりしますでしょう。こうすればあげんなる、あげんすればこうなる、と言うおかげの話をするでしょう。
そげな事しょったっちゃおかげにならんばいと、はっきり言うて頂くでしょう御理解に、それは私は個人個人には言わん。ああ今日は、私に当て付けられとるごとある時、自分に言われよると思うてです、それを改まって行かにゃおかげにならん。そういう中にです、これはもう絶対のもの絶対おかげが受けられる、いやお徳が受けられるという行き方の中に、いわゆる梅の花の信心に徹するということ。
私はそこだけを今日は一つ分かって頂きたい。辛抱が出来んごとあろうけれども、さあそれを辛抱し貫く所におかげがある。本当にこれは私がここから眺めておって、きつい事じゃなあと思う。きついと言う事は疲れると言う事じゃない、残念な事だなあと思う。今あんた達は修行中ばい、その修行中の分際でですよ、信心を抜きにして外の事どん考えておったり、ここはひとつ辛抱をし抜かんならんところを辛抱しなかったり、いつ信心は本気で取り組むかと言う様な事を、これはまあ修行生に対しての場合。
今日はだから皆さん、こうすればああなる事が分かっておるんだからです、こうすると決めたらひとつ梅の花の信心で、辛抱し抜かせて頂くおかげを頂くその暁までは、そこんところを頂きぬかせて頂く信心をさせて貰わなけりゃいけない。今こうやってお話を聞いて頂きました。今迄のところ分かったでしょう。私が今日言わうとしてるところは、今お話しながら頂きよることはね。
あのテレビで宣伝してますね、あのジュースのフアンタか何かね、僕のフアンタ誰が飲んだと言うのがあるでしょう。私のフアンタは誰が飲んだとこういう訳です。と言う事を今頂いて、だから私が言う前のところをよう分かって貰わねば、私が今日失敗したと言う事を聞いて頂いた、辛抱し抜くと言うたら辛抱し抜かにゃいけん、と言う事を聞いて頂いた。そこで私は思うのにね。
これは私の場合ですから、皆さんの場合じゃないですよ。神様が失敗させてこの御理解を下さったと言う事になるのです。あれは責めよるとじゃないでしょうが、僕のフアンタ飲んだの誰あれと言うのは、如何にも責めよるごとあるけれども。それは宣伝の文句なんです。私のフアンタ飲んだの誰れという程しにこのジュースは美味しい、という宣伝をしておるだけで、私は今日失敗したと、そう皆さんに聞いて頂いたんですけど、実は私が失敗したんじゃない。
神様がそういう失敗をさせて、皆さんに今日のことをお教え下さった。皆さんこうすればああなると言うことをひとつ、皆さんの場合分かって居られるのだから、あれもこれも出来んでも、今日わかったこと、此処で言うちゃならん、これだけは言うとかんならん。言う事はいらんとばって、昨日上野先生がこれだけは帰って家で言うときたい事がありますから、今晩帰らせて頂いてと、夕べ月次祭が終わって帰った。
そげな事は言わんで済むがと言わうごとあるけど、もうこれだけはと思い込んどるから、まあ家に帰りたい一心それもあろうと思うて、なら帰えんなさいと言うて帰しましたけどね、これだけは言うとかんならんと言う事は絶対ありません。そこんところを神様に縋って、願わして頂くおかげであって本当のおかげ、そしてそこんところ辛抱するところに辛抱力が出来る、力ができる。
どうぞ。